一般論としての、学説と判例との関係

id:y_arimさんは「最高裁の司法判断」と言っておられますが、これをいわゆる判例*1のことを言っているものとして、話を進めます。

学説

事実に法律を適用しようとする場合に、法律の条文は抽象化された文言で書かれているので、解釈が必要となってきます。
そして、抽象的な条文の文言からは、複数の採り得る解釈が出てくることが多いです。そこで、複数の解釈論の間で論争するわけです。この「条文の解釈をめぐる複数の解釈論」を指して、一般に学説といいます(学説といえば、必ず条文解釈についてのもの、というわけではありません。)。
学説にも、最も支持を集めているとされる、いわゆる「通説」と、これに反対する「少数説」があります。あるいは、「通説」ほど抜きん出て支持されていないが有力な説を指す「有力説」なんて言葉もあります。

判例

これに対して、判例は、「最高裁が下した公権的判断」です。
判例は、一定の拘束力を生みます*2。この点が学説と違うところです。判例が出ると、以後、裁判所のみでなく、実務*3もこれを基準に動くので、非常に影響力が大きいのです。


ほとんどすべての場合、判例には、学説が先行しています。
学説を全く無視しているみたいな判例が出ることもありますが、少なくとも、判例が学説を意識していないということはありえません。
最高裁調査官という役職があって、若手の優秀な裁判官がこの職に就きますが、この最高裁調査官が、最高裁に係属した事件において法律上の争点となっている点に関連する判例(下級審の裁判例も含む)・学説を調べ上げ、最高裁判事に答申していると思われるからです(ウィキペディア*4によれば、判決文の草案まで書いているそうですが)。


すなわち、判例は学説を前提として出るものであると理解していいと思います(繰り返しますが、それまでの学説オール無視みたいな判決が出ることもありますが、そのことによってこの事実が否定されるわけではありません)。

判例が出て以降の学説

判例が出た後、必ず学説が黙ってこれに従うわけではありません(学説間の争いがパタッと止んでしまうことも多いですけど)。それ以降も、判例に従う説・それ以外の説に分かれて争いが続くことも、少なくないのです。
判例が出る以前と異なるのは、判例が出て以降の学説は、判例に対する批評を避けられない点です。つまり、学説は、判例が学説に対してするみたいに、判例ガン無視ということはできないのです。
これは、判例のほうがエライからではなくて、判例に「公のもの」という性質が強いからだと思います。判例を無視して独自の学説を展開しても、法律学としての意味がないのです。
学説は判例を無視できませんが、学説から非常に評判の悪い判例というのはあります。

まとめ

・ある法律の条文について、複数の解釈が出ることが多い。これを学説という。
・実際にその条文の解釈に関係のある事件が起き、訴訟が提起され、最高裁まで上告された場合、最高裁の判断が出ることがある。これを判例という。
・学説はほぼ常に判例に先行して存在するから、判例は学説を前提としている。
判例が出て以降の学説は、これを無視できない。

*1:とりあえず、最高裁判決の中でも事実上の拘束力を持つ部分、と理解してもらえればOKです

*2:刑事訴訟においては判例違反は上告理由となり(刑事訴訟法405条2号)、民事訴訟においても上告受理申し立て理由になります(民事訴訟法318条1項)。下級裁判所は自らの判決が上級審で破棄されるのを非常に嫌うので、判例が打ち立てられた後に下級審がこれに真っ向から逆らう判断をすることはなくなります。また、最高裁じしんは判例変更をすることができますが、これは非常に稀です。どれくらい稀かというと、判例変更をするためには最高裁は大法廷を開く必要があるのですが、近年、大法廷が開かれるのは年にせいぜい一、二回しかありません。開かれない年もあります。

*3:民事なら銀行・企業等および法律系専門職、刑事なら検察・警察および弁護士

*4:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E8%A3%81%E5%88%A4%E6%89%80%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%AE%98